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わたくしごと・・・⑫(ようやく本編)

大騒ぎしていた2000年問題も、さして影響は出ず
年も明け新世紀・21世紀となったが、
テレビや雑誌、映画やテレビ漫画(当時はアニメをこう呼んでたと思う)で見た
宇宙旅行の旅客機も超高層ビルを縫うように空中に伸びる透明のチューブも
空を飛ぶ車も10万馬力のロボットが活躍するような
小さい頃、夢見たような未来世界は無く、まだまだ先の話になりそうだったし、
そもそも、これから先その様なものが必要で造られていくのか判らないほど
地球は病んでいた。
(地球でなく人類だと思うが・・・)

何より人の営みは30数年前とさして変わらず、便利になった事もあるにはあるが
情緒もなくなった生きていき難い殺伐とした世の中となっていた。

それでも前年に借り入れも出来、金銭的な不安感も払拭され(一時的なものだったが・・・)
我が家は穏やかで久しぶりに少しばかり贅沢な気分の正月を迎えていた。
正月休みのうちには前年の秋に行った『ジャパンガーデニングフェア』
出展していた業者さんと初めての取引の為、
ストックヤードへ資材を見がてら家族と共に小旅行なども楽しんだ。
と言っても世間様で言うような優雅なものでなく、
あくまで我が家の基準の贅沢であり、おそらく他所様から見れば
贅沢でも何でもないようなほんとにささやかなものだった。

仕事の方は正月休み明けから前年同様、S工業から現場代理人を頼まれていて
年度末となる3月まではひとまず安心だった。
と言っても気持ちは庭の仕事へ傾いてもいたし施工業者も変わって
少しばかり手もかかったので正直あまり乗り気でもなかったが
借り入れ金の返済も始まったので背に腹も変えられず
いろんな意味で早く春が来ないかと日々の仕事をこなしていた。

とは言うものの前年同様、同じ内容の仕事ながらサラリーマン時代とは
全然違う感覚に我ながら何と現金な生き物だろうと思った。

下水の本管工事を2現場をこなし3月の上旬には書類の整理も終わり
シーズンを前に前年の10月頃【Heart’s Ease】の先生から紹介された
Ⅰ様のお宅の設計やS組の専務が振ってくれる仕事の設計や見積もり等
すぐにお金にはならないがやらなければ絶対お金に繋がらない仕事を
少々不安感と焦り感じながらやっていた。

本来ならそれほど不安感や焦りを感じなくても良さそうなこの時期
何故そんな状況に陥っていたのか・・・

当時の国金の返済額は平均      約64,000円、
住宅ローン関係の返済が       約70,000円(ボーナス払い別)
車のローンが2台分で        約59,000円、
自宅の下水工事の借入金の返済が   約12,000円
仕事を始めるのに買った備品のローン 約11,000円
以前事故ッた時

A君のバイクの弁償費のローン   約15,000円
銀行系のキャッシングの返済が    約30,000円
信販系・消費者金融系の       
キャッシングの返済が        約48,000円
(自分のだけではないが・・いわゆる
名義貸しの分が不定期だったので) 

水道光熱費・税金・保険       約70,000円
食費など生活費

毎月最低限必要な金額が〆て      約379,000円 
 
うへぇ~書いてて気持ち悪きなってきた
既にこの時点で我が家の経済は破綻していたのである
って気づけよおれ   
さらにこの月がたまたま車検だったの約100,000円
その他現金で買った備品や工具類や以前個人的に借りていたお金の返済
仕入れや外注費などもあって通帳の預金残高はどんどん減っていった。

そりゃ当たり前だ・・・のクラッカー

まぁ、当時はバイトでもそれなりに稼げたのでどうやらこうやら
何とか?なって?(幻想)いたし、
とにかく大きな仕事が入れば何とかなると思っていた。
おバカ・アホ・ドジ・マヌケ・ち○か○・短○・包○・○漏・・・
ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせかけても足りないくらいである。
丼勘定もいいところで、もはや経営者とか自営業者とか
とてもじゃないが言えたもんぢゃぁない・・・状態だったのである。

それにも輪をかけて更に残高が減るような事を、既にこの時点でしていたのだった・・・。
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わたくしごと・・・⑫の予告

ほぼ一年ぶりの『わたくしごと…』であります
自分でも何を書いていたのか、どこまで書いたのか忘れてしまうくらいですから、
お立ち寄りの皆様の記憶からはすっかり消えていたんではないかと・・・たははは

昨日で仕事を立ち上げてから丸八年。ほんとに色んなことがありました
どうにかこうにかこうして続けてこれたのも友人や家族の協力、
そして何よりお客様あっての事、決して私一人で歩んでこれたわけではありません。
あらためて皆々様に深く厚く御礼申し上げます

どうなることやら先の事など判りませぬが重ねることができる限り
積み上げていこうと思っております。今後ともよろしくお願いいたします

それでは『わたくしごと・・・⑫』始めさせていただきます

やばっ!
昨夜続きを書かないまま予約投稿してたの忘れてたぁー!
へたこいたぁ~○| ̄|_
まっ久しぶりなのもあるし予告と言うことで・・・
と、ごまかしておくだはははは

後ほど本編はUPいたしまふ
じゃ シュ〆



わたくしごと・・・⑪

結局7の月が過ぎても天変地異も核戦争も起こらず
人類は滅亡もせず存続していた。
もっとも随分前から既にそのような戯言は信じてもいなかったし、
また仮にそうなったしても自分自身には
さして悔いも残らない気がしていた。

この年の夏はその後の庭の仕事はまだ決まらず
かみさんと2人で爺婆のように毎日、毎日自宅の庭弄りを
して過ごしていた。
お金の不安や仕事への様々な不安は付きまとっていたが
同じ趣味を共有することで、とても楽しく会話も以前より増えていた。

勤めに出ていると家族と過ごす時間よりも
会社に居る時間のほうが断然長い。
共に過ごす時間を持ちたくて結婚したはずなのに
いつしか一緒に居る時間が少なくなっている。
かみさんはどう思っていたか判らないがおれには幸せな時間でもあった。
この時期には暇に任せて、かみさんの友人のインストラクターの
Y先生から頼まれた伊那祭りで使う看板などを造ったりもしていた。

そんな夏のある日、枕木のデッキを造ったCさんの妹さんから連絡があり
Tさんと言う方をご紹介してくれた。

早速告げられた連絡先に電話して日にちを決め
後日お話をうかがいに行った。
今、家を建築中でもうじき引渡しなのだがアプローチと庭を造りたい、
何社かに設計と見積りを依頼したのだが
なかなか思うようなデザインプランがないので、
良かったらデザインしてみて欲しいとの事だった。

ほぼ完成した建築中のお宅を拝見し更に詳しい話を伺って
設計をはじめた。
誕生月でもある9月1日から本格的に起業しようと社名を決め、
営業し始める少し前の事である。

9月に入ると社名を入れた今と基本デザインは殆ど変らない
名刺を持って本格的に活動し始めた。
ワイズのⅠさんの所や知り合いの所に営業に行ったり、
専務のところからも設計と見積りするよう頼まれたりしていた。

Tさん邸の最初のデザインプランと見積りが出来たので
お話しに伺うとイメージが違うようだったので
再び次のデザインプランを考えた。

この時期、まとまった庭の仕事はまだ決まっていなかったが
前述のS工業の社長さんやS組の専務の計らいで
土木工事や造成工事等の手伝いのバイト等で
何やかやと忙しく飛び回っていたように思う。

飛び込みで営業もしてみたがインターフォン越しの門前払いで終わった。

瞬く間に一ヶ月が過ぎ10月に入り少し過ぎた頃
実家のスタンドのお客さんのKさんが庭の芝を張り替えたり、
少し庭を弄りたいとの連絡が入った。
お宅に伺いどのようにしたいのか等、話を聞いて測量をし、
それこそ寝食忘れるくらい図面を描き始めた。
まだCADも使っておらずレンガの一個一個の部分まで細かく描きこんだ。
図面と見積りを持って再び伺うと、お世辞なのか
描いた図面を飾っておきたいなどと言ってくれた。
DSC02010-1.jpg

描いた甲斐はあったのだが、結局、契約までには至らなかった。

引き続きTさん邸のデザインプランも考えて図面にしてみたが
既に2つくらいのデザインプランが自分の中で没になっていた。

10月の中頃にはCさんの友人のKさんから、この時初めて
【Heart’s Ease/はぁつ いぃず】の先生を紹介された。

まだまだ終わりません後半へ続く・・・

わたくしごと・・・⑩

雨の影響で昨日から寒いくらいです。とても半袖ではいられません。
ストーブ焚いたりしちゃってます。
『わたくしごと・・・』シリーズも、いよいよこの仕事を起業するまで
の部分にさしかかろうととしています。
想えば七年前に始めた今頃は37歳に成ったばかりでした(ふっ・・・遠くを見る目)
早かったか、短かったかと言われれば本当に
長く感じる七年だった気がします。
特に3年を過ぎた頃から来る日も来る日も
ローラーで押しつぶされるような毎日でもありました

と言ったわけで44回目の誕生日を迎えた今日、
あらためてこの仕事を始めて歩んできた七年間を
振り返ってみたいと思います。
(とさりげなく誕生日をアピールしるって、さりげなくねぇかたははは)

今回、先日まで仕事のお手伝いに行っていたS工業の社長さんには、
会社を辞めたこの時期、本当にお世話になっていました。感謝感謝
今回も手伝いに行ったのは日当稼ぎは勿論ですが
その頃のご恩返しの気持ちも少なからずあっての事でございます。
と言うわけで始めさせていただきます。

いつもの事ながら、いやいつにも増して長くなってしまいましたが、
よろしくお付き合いくださいませ

――――――――――――――――――――――――――――
話は少しさかのぼるが髄内釘を抜いた手術後初の現場は
下水道の本管工事でS工業と言う初めて仕事をする外注さんだった。

以来Ⅰ社長は何かと懇意にしてくださりプライベートな事を
話す機会も多かった。
会社を辞めること、独立して自分が庭の仕事をやりたい事なども
それとなく話してあった。

会社を辞めてからしばらく経ったある日、
そのⅠ社長から連絡があり中信と北信地方の境辺りにあるある村の
下水工事の現場代理人としてバイトで好いから行ってもらえないかと
打診があった。・・・と言うより結構強力にプッシュされた。

一時期より減ったとは言え当時はまだまだ下水道の本管工事も
村部などはまだまだこれからと言うところで発注もそこそこあった。


ここで少し話はそれるが、公共工事=悪と言う風潮が出来て随分経つ。
勿論、本当に無駄な工事をしていると思える事は多々あるが
実際に地場産業も少なく働き口が少ない村部等では公共事業によって
数少ない商店や地元の業者が潤う事をこのとき実感した。
何でもかんでも都市部の基準や富裕層と思える政治家や県知事が
自分の生活を基準として考える昨今の風潮は如何なものかと
一家言呈しておく。

勘違いされないよう書いておくが、おれは税金を使った無駄な
公共事業を推奨しているわけではない。
不必要な工事は沢山あるのも事実だと思う。
ただ目で見て肌で感じた事を書いておこうと思ったまでだ。

それにわざわざ施工状況が悪くなるような冬場に工事が集中するような
予算編成や役所の発注と言った根本的な部分をそろそろ見直す時期に
来ている気がする。
まぁ最近は公共事業に殆ど関わった事がないので
的を外れている部分もあると思うがご勘弁いただきたい


-閑話休題-


高速を使って家から現場まで一時間と少し遠いのが難だったが
金銭的にも好条件を提示され高速代、燃料代等の経費も
社長さんの会社で持ってくれると言う事で、
まだ本格的に庭の仕事をする体勢になっていなかったおれは
一にも二にもなく引き受けた。
フリーの現場代理人と言うわけだ。

いずれにしろ季節はこれから冬になるわけだし、
その間に出来る事は準備すれば良いと思った。

一緒に仕事をする外注さんも同じ市内のH興業さんだった。
会社を辞めてから僅か10日程で再び現場代理人をする事になったのだが、
会社から解き放たれてフリーとなった今は同じ仕事でも
全然別のものにさえ思えた。

役場の人や地元の方々も親切で一緒に働くH興業の皆も
気持ちの良い青年ばかりだった。
この頃、休日の前には仲間として誘ってくれて
よく呑みに行ったりしていた。
彼らとは今でも友人としてお付き合いしている。

工事の方は大岩が出たり、寒さもきつく何かと大変なことが多かったが
それでも気持ちは軽やかで何より縛られない自由さを大いに満喫し
昼飯に弁当を食っている時など晴れた青空を見て働く事
働ける事の幸せをしみじみと感じたりもしていた。

その村の現場も終わり、そのチームのまま元請けの建設会社のある
近隣の町へ移って何やかやで工事や書類の提出が終わったのは
既に5月も半ばを過ぎていた。

そろそろ長い時間をかけて見つけた本来の道に戻る季節になっていた。

わたくしごと・・・⑨

日中は暑い日もありますが季節は夏から秋へと徐々に移り変わっています。
確か10年程前に敷いて庭の仕事を始めるきっかけの一つにもなった
この耐火レンガの通路も周りの丸太が一部朽ちたりして
少し様変わりもしていますが通路は更に地面と馴染んでいるように思います。
CozyGarden191.jpg

朽ちていくもの、変らぬもの、馴染んでいくもの・・・
時の流れは季節のように移り変わっていきます・・・。


家を建ててからこの年の秋で4年の月日が経とうとしていた。
その間には今までも書いてきたように様々な事があった。
家の周辺の状況も建てた当初とは大きく様変わりしていた。
家の横には最初の入院の時に工事中だった大きな道路が一部を除いて開通した。

しかしながら我が家の庭の方は具体的なプランも浮かばないまま
いたずらに時間は過ぎていった。
南の敷地境には現場で余った間知ブロックを横に2段ほど自分で積んだだけで、
この時はやる気も起こらず、たまの草刈も仕方なしにやっていた。

会社の方は社員も増え現場代理人ばかりが多くなり仕事が分散され
現場事務の女子社員も増えたので役所へ提出する竣工書類も
以前のように徹夜するほどのことも無くなった(勿論時にはあったが・・・)
そんなわけで残業や休日出勤も極力しないようにと言うお達しが出て
それに伴い時間が出来たのと比例して給料やボーナスも徐々に目減りしていった。

公共事業自体も社会情勢と共に徐々に減り出していた。
月に2回ほどあった原価会議も現場の状況にあまり関係なく
少しでも実行予算を割りそうなら社長や専務から容赦ない叱責が飛んだ。
もっともお気に入りの社員には少しばかり物腰も
柔らかい感じにもなっていたが・・・
おれはと言えば、勿論、容赦ない方が多かったわけで・・・たははは。
会議が近づくにつれ代人達は自然とピリピリとした空気をかもし出して
社内の雰囲気もあまり好いとはいえない状況だった。

そんな状況もあって入院後から行っていたスイミングに1日おきに通い
フラストレーションを発散するかのようにジムでひたすら身体を鍛えていた。
飲みに行けば会社の愚痴と悪口が以前にも増して口をついて
出るようになり、あまり美味い酒を呑んでいるとは言えなかった。


社会や会社の情勢のせいか民間の工事も徐々に増えていった。
そんなある日、以前造成中に手伝いに行った事のある住宅団地にある
一件のお宅から庭にする部分の土の入れ替え等の土工事や
貼り芝等外構工事の仕事が発注され、おれのところに仕事が回ってきた。

測量に行き概要のデータを上司に提出すると程なく契約できたようで
それ程時間を空けず着工する事になった。
当時は今みたいに自分で施工するわけでなく(勿論手伝ってはいたが・・)
施工管理やら材料の発注など、あくまで現場代理人としての仕事をしていた。
工事も進んだある日、お施主さんから庭の設計をして欲しいとの
依頼があったので事務所で図面を書こうと考えたのだが
いかんせん知識も経験もなく、なかなか進まなかった。
工事の方は概ね順調に進んでいたのだが、
一向に出来ない図面に痺れを切らしたのか
『このようにお願いします』とお施主さんご自身で描かれた図面を手渡された。
一通り工事も終わったので挨拶に行くと
玄関のアプローチや駐車スペースも弄りたかったようだった。
一部施工してもらった外注の業者さんとお施主さんとで
直接話をしてもらう事にした。

会社にも上司にも報告せず勝手に判断してしまったが
現状の今の会社の体制で本当にお客さんの満足できる庭が出来るのか
甚だ疑問だった事も根底にはあった。

後日そのお宅の近くを通りかかると石積みの花壇や
石貼りのアプローチや庭にはパーゴラが出来ていた。
チャイムを押して出てこられた奥様と話をすると
たいそう喜んでおられた。


一体何処の誰が喜んでいるのか判らず、時に役所、時に会社、
時に地元、時に外注さんからのクレームはあっても
喜んでいる人々の顔が見えず、
事が起きれば責任の重い割に合わない現場代理人という仕事に
以前から抱いている疑問がふつふつと沸き起こっていたが
会社を辞めて何をすればいいのか、
でも会社に勤めていれば給料はもらえる
といった感じで、ただただ漠然と、
もやもやしたものを抱えて日々を過ごしていた。

ほんとは昨日からだけど・・・【わたくしごと・・・番外編】

1999年の9月1日に創業して以来一昨日で丸7年経ちました。
まだ7年か、もう7年か・・・
あっという間か、ジリジリとなのか・・・
よく判りませんが、とにかく7年と言う時間が経過した事には間違いありません。
20世紀から21世紀へと変り
年齢も30代から40代へ
小学生と保育園児だった娘と息子も高校生と中学生になりました。

振り返れば、この7年間、本当に色んなことがありました。
が、とりあえずこうして今でもこの仕事を続けてこられたのも
(辛うじてですが・・・たははは
お客さまや家族や友人や周りの人たちのお力添えが有ったからに他なりません
本当に感謝しています

いつまで続けられるのかも先の事など判りませんが
世の中に必要として下さる方がいらっしゃるうちは
身体と気持ちの続く限り頑張って生きたいと思います

『わたくしごと・・・』シリーズも丁度この仕事を始めるまでの経過を
書いている途中です。
今日か明日にはエントリー出来ると思うので、
よろしければ、またまたお付き合いくださいませ

【ほんとは昨日からだけど・・・】八年目に向かって更なる飛躍・・・
をするかどうかは判りませんが相変わらずのマイペースで飄々と
歩んで生きたいと思ってます。

本日も全ての皆々様が良き日となるようお祈りしております

                                こじぞう

わたくしごと・・・⑧

お盆休みもそろそろ終わりでしょうか
まだお休みの方もこれからお休みの方も仕事の方も
如何お過ごしでしょうか?

お盆休みのせいだけでもない階段を転げ落ちるような
アクセス数の減少を少しでも食い止める為にも一ヶ月ちょっとぶりに
『わたくしごと・・・』の続きを書いておきますね
って歯止めになるのか判りませんがぁ

※初めてお読みになる方、忘れちゃった方はお手数ですが、
今一度、『わたくしごと・・・』シリーズお読みくださいませ
それでは始めさせていただきます。


あの夏も暑い夏だった。

Tさんとはおれが23歳の頃、あるイベントで知り合ったのだった。
そのイベントには当時付き合っていたかみさんと一緒に参加していた。
イベント終了後、参加者の有志で海水浴に行き
その後は町で数回あった時などに軽く社交辞令的な話をしただけで
同じ町に住んでいながら殆ど接点もなかった。

縛り付けられたTさんのベッドの脇で
お互いの怪我や事故の状況、近況などを語りあった。

Tさんの怪我は右上腕部の骨折と割れたガラスでの裂傷と打撲などだった。
どうやら仕事からの帰りに少し道が狭くなっている場所での
すれ違いだったのでTさんは殆ど止まる位までスピードを
落としていたところへ、はみ出した対向車が突っ込んだようだ。

『ゆうべの喋り方や声や奥さん見たら若い兄ちゃんかと思ってた』
と笑いながら告げると表情は包帯で見えなかったが
Tさんも笑いながら『イテテテ』と言っていた。

奥さんと家族がまだ小さいTさんの娘を連れてやってきた。
話してみるとやっぱり高校の後輩で尚且つおれがスイミングでバイトしていた同時期、
奥さんもバイトしていた事も思い出した。

この年だけなのか整形外科のせいなのか時期のせいか、
毎年入院しているわけではないのでよく判らないが、
患者さんは同世代の人が多く病院にも関わらずなんとなく活気があった。
活気があったと言うのも変な言い方だが、みんな怪我をしているだけで
他の部分は規則正しい生活もあってとても元気なのだ。

おれもなんともない左側を鍛える為にかみさんに頼んで
家から持ってきてもらったダンベルや鉄アレイや足に付ける重りで
筋トレしたり腹筋したりしていた。

朝はそれまでは寝坊でなかなか起きられなかったが
殆ど毎日6時の起床の合図の放送がなる前に起きていた。
そして洗面を済ませた朝食までの間、院内の散歩が日課になっていた。
と言うより最初はトイレが込んでいたので外来病棟の方まで遠征に行って
帰りに売店の自動販売機でコーヒーを飲む・・・。
が日課になっただけの事だった。

抜糸も済んで、この頃から風呂も入れるようになり看護士さんとの
楽しい時間でもあった。

Tさんの怪我の経過もよく、じきに顔の包帯も取れた。
確か一週間ほどで手術になりTさんもようやく拘束から開放された。
しばらくして同室の患者さんが一人退院してTさんの横のベッドが空いた。

『こじ君こっち側に変えてもらえばいいじゃん』
『おお、そりゃいいね』
さっそく引っ越して枕を並べる事になった。


いつしか梅雨も空け本格的な夏になっていた。
歩行器から松葉杖になり松葉杖から3、4日で杖にステップアップした。

朝の散歩も院内から天竜川の堤防道路まで行動範囲は広がっていた。
とは言え別に走り回れるわけでも普通に歩けるわけでもなく
杖を突いておっかなびっくりおじいさんのように歩いていた。

おれらの病室のすぐ横の病棟の端に外へ通じるドアがあった。
普段は安全管理上の為か開いていないのだが、
そのドアの外のコンクリートの歩道の2㎝ほどの段差でも
怖ろしく感じ、さらに歩道から駐車場へ続くスロープと
10cm程の段差は下りるのにかなり注意をしなければならなかった。

このころ日に焼くと骨の直りが良くなると何かで読んだので
外のベンチでの日光浴が日課になっていた。
Tさんや他の病室の若い人達もいつしか日光浴に加わり
病室の横の広場のベンチは上半身裸の怪我人がごろごろしていた。

扇風機もない病室は窓を全開にしても暑く、
半ズボンと上半身裸で過ごしていた。
流石に売店や他の病棟へ行くときは上にも着たが・・・。
Tさんも殆どタンクトップか上半身裸で過ごしていた。

毎日の日光浴の為、日に焼けて真っ黒になった上半身裸の
健康そうな患者がうろうろする異様な病棟となっていた。
他の患者さんのところへお見舞いに来た人がぎょっとしていた。
見舞いにきた通院中のA君や友人や後輩も
『何処が病人よ!』と呆れていた。
そして皆なんだか羨ましそうな顔をしていた。
入院中に会社に新入社員が入ったようで後輩が愚痴をこぼしに来たりもした。


酒盛りして看護士さんにこっぴどく怒られた人や
Tさんも外出届けをだして会合に行き時間までに戻らず
連絡が取れないと大騒ぎになって怒られたりしていた。

Tさんとオナ禁マラソンで夢精を目指したりもしたが
2人ともついつい我慢できず途中で断念した。

そんなこんなで不自由だが思いのほか楽しい入院生活となり、
いつしか7月も終わりカレンダーは8月に変っていた。
外泊許可も出る様になった。

徐々に退院の日が決まる人が増えてきて
出張途中の中央道で事故った岸和田のMさんも
退院が決まったようだった。
いつしか大親友となっていたTさんも、そろそろ退院してもいいようだった。
同じ釜の飯を食った仲間達の退院を嬉しさと羨ましさと寂しさの
入り混じった気持ちで見送った。

お盆を待たずに殆どの人が退院していった。

― おれはと言えば外泊届けを出しお盆は家で過ごす事になった。―

わたくしごと・・・⑦

今年は梅雨らしい梅雨ってんでしょうか。
そういえばこのブログを始めた5月も一週間近く雨模様でしたねぇ。
11年前のあの時も、確かこんな梅雨らしい梅雨の年でした・・・。

おっ珍しく前置きが短いねぇ
と言うわけで早速始めさせていただきます。

翌朝、看護士さんに起こされてカーテンの開いた窓から外を見ると
雨が降っていた。
病院は知ってるのだが自分がどのあたりの病室に居るのかさっぱり判らず、
朝の病棟の慌しい雰囲気が開いたドアの前を通り過ぎる入院患者や
看護士さんの足音で感じとっていた。
昨夜は感じなかった身体の痛みも一晩経つとあちこちで起きだし
吊られている為に身体も足の方へすり下がっていた。

看護士さんが再びやってきて検温やら点滴の様子やら、
それから色々説明してくれた。
かみさんも早々にやってきてくれて、食事の支度やら
これからしばらくの間、ここで生活するための細々したものを
サイドテーブルの引き出しへ入れたりしてくれた。

それから手術予定日までは毎日が退屈さと苦痛との毎日だった。
動けないし痛みや微熱の為、食欲もわかず、
左手で食べられるようにとわざわざ握ってくれたおにぎりも
病院食の柔らかいご飯の為に何となくべたっとした感じで
余計にげんなりした

横になっていても寝腰というのか、とにかく腰が痛いし、
かといって寝返りもうてず、起こせるのは上半身のみ。
ほぼ毎日降っていた雨と窓から見える変わらぬ景色とで
鬱々とした毎日を送っていた。
おしっこは尿瓶、うんこは寝たままでホーローの薄い便器にして
風呂へは勿論入れず身体を拭くだけだった。

『とにかく早く手術をしてもらいたい』の一心だった。

一週間後の予定だった手術が熱が下がらず翌週に延びてしまった。
もう一週間もこんな状態だと思ったら本当にげんなりした。
想い出してみてもこの時の鮮明な記憶は正直あまり浮かびあがってこない。
想い出せるのは雨と隣の病棟の壁となんとも言えない腰のだるいような痛みくらいだ。
人の脳は嫌な記憶はあやふやにしてあまり想い出せないように働くらしい。

そんなわけでようやく手術が決まった時には、出来るものなら
小躍りしたいくらいだった

いよいよ手術当日がやって来た。
浣腸やら何やら朝から慌しく準備をして
うっとおしい牽引器具からようやく解き放たれて
脊髄がごりごりする麻酔をして準備室へ向かった。
手術室へ入りしばらくすると全身麻酔の為のマスクを
『1、2、3と数えるからゆっくり吸ってね』と
麻酔科の先生が鼻と口にそっと押し当てた。
『1、2・・・』暗闇の中へ瞬く間に落ちた。


『こじさん、こじさん・・・終わったよ』の声に
『何だよ気持ちいいのにぃ。もう少し寝かせておいて・・・』
と心で思いながら目を開けた。
お花畑も手招きする誰かも見ることなく
ほんの数分しか経っていないうちに終わったような気がした。

『えぇ?もう終わったんですか?』
『終わったわよ』顔見知りの看護士さんが答えた。
『こんなに爽やかに麻酔から目覚めた人珍しいわ』
と笑いながら言っていた。

手術後、病室は4人部屋に移っていた。
病室にはその時、おれを含め3人ほどが居た。

麻酔が覚めきっていない状態でうつらうつらしていたが
どこより下唇の右側がしびれるように痛かった。
それでも膝を吊っていたあの忌まわしい牽引器具から開放された事が
何より嬉しく白熱灯の柔らかいベッドライトの光を閉じた瞼に感じながら、
いつしかまた眠りに落ちていった。

わたくしごと・・・⑥

こんばんは~、日曜日の夜、皆さんいかがお過ごしでしょうか?
おれはといえば今日は昼ごろちょびっとだけ
庭に自生してた松がでかっくなってきたのを伐ったくらいで
(山から持ってきた腐葉土の中から生えてきた)
特に何もせず夕方まったりと一時間も
風呂へ入っておりました。

さてさて、皆様にご贔屓にしていただいている
『わたくしごと』も早くも6回目となりました
当初は2、3回で現在までたどり着く予定でしたが
一体いつになったら、たどり着く事やら・・・
そういうわけで、ってどういうわけだか判りませんが
とにかく始めさせていただきます。


『あいててて・・・。いつもよりこけ方が激しかったなぁ。
明日は痛くて起きれんかも、もう一日休まなきゃかぁ?
また嫌味言われちまうなぁ・・・。
と歩道に寝転んだまま半分つぶやきながら考えてると、
車道の方から『ガシャ、ガシャーん!うわぁ!』なんて音と声が聞こえた。

『やべっ!おれのバイクが車にぶっかったんだ!
また金がかかるとにかく起きねば』と思い
上半身を起こし立ち上がろうとした。

あれぇ?何で立てねぇの?』

もう一度立ち上がろうとして膝に力が入らないことに気づき、
『膝を脱臼したのかぁ?』と後ろに曲がっている右足を
よくよく見ると膝のかなり上の太ももの真ん中辺りで
まるで膝を曲げたかのように折れ曲がっていたのだった。
つまり膝が二つあるようなものである。って違うか?違うね

『こりゃ、明日だけじゃぁとても治らんわ』と思い、
いつの間にかブーツが脱げていた右足を持って『よっこらしょ』と
一応元の位置に戻し他に怪我がないかチェックしてみた。

とりあえず頭は打ったものの意識ははっきりしているし吐き気も
無いんで頭はまぁ大丈夫。多少打ったほうが良いくらいだ。
さっきから動かすと右腕の手首の上あたりが『ピキっピキっ』
いってるんで多分ひびが入ってるか折れてるかのどちらかだろう。
あとはとにかく打撲かな?

その頃から痛みが増してきたので骨折してる右足を下にして
一番痛みの少ない体勢で寝ていた。
もう一度右足を見ると、ジーパンが太もものあたりで破れ
さらに出血している事に気がついた。
『やべぇ!太ももには動脈だか静脈だか、とにかく太い血管があるはず。
骨折なんかいいけど失血死するかも
とあわてて汚いグローブのままとにかく出血してるところを押さえつけた。

そうこうしていると事故を見ていた人なんかが集まってきて
『大丈夫ですか?今救急車呼んだから』
おれはまたおれのバイクがぶつかった対向車の運転手だと思って
『車は大丈夫ですか?すみませんでした』
なんて後になって考えると的外れな事を言いながら
そのおじさんに救急車を呼んでくれた礼を言った。

そのうちにA君が『いててて、腕をやっちまったぁ』と右腕を押さえながら
『大丈夫?こじさんのバイクがいきなり横から飛び出てきて
ぶつかって、おれもこけちまった』
と歩道に座りながら言っていた。
『おれは足と腕をやっちまった。大丈夫かぁ?すまん』と
横になったまま詫びていた。

程なく先行していたO君もやってきて
『大丈夫?二人がちっとも来ないんでどうしたかと
戻って来るとえらい事になってるじゃん。
後ろも見なかったんで全然判らなかった、ごめん』
『いやぁ、すまんなぁ』とおれ。
とにかく両方の家へ連絡してもらい事故の処理を頼んでいると
救急車がやってきた。

産まれて初めて救急車のストレッチャーに乗せられて
事故現場から5分ほどの市営病院に搬送された。
『A君は?』と誰にともなく問いかけると
『乗ってるよぉ』と足元の方から声が返ってきた。

本人は元気な?つもりでも途中、血圧が下がったようで
救急隊員の方が『しっかりしてください。もうすぐ着きますから』
なんて励ましてくれた。

回りも見えないので何処を走っているのか判らず病院へ着くまで
結構かかったような気がしたがほんの数分だったことだろう。

病院へ着きストレッチャーのまま処置室に運ばれると直ぐに処置が始まった。


今回はいつにも増してさらに長くなりました
と言うわけで後半へ続く・・・

わたくしごと・・・⑤

お立ち寄りの皆さん、こんぬずばぁ
月曜日の気だるい晩、如何お過ごしでしょうかぁ?
おれはと言えば夕食後、再びパソコンの前に座って
仕事をしてる次第でございます。

最近は夜のお仕事やエントリーしようとする事が
沢山あってなかなか書けない『わたくしごと…』の続きを
ちょびっと書くことにいたしやす。

いつもながら長くなる前置きはこの位にして、えぇっと・・・
どこまで書いたんだって自分でも忘れるくらいなんで
奇特にも拙い文章を読んでくださる今までのを忘れた方、
はじめての方はカテゴリーの『わたくしごと…』を
ご参照くださいませ
と、いつもながら全部読ませようと姑息な手を使うのである

はいはい、すいませんでしたそれでは始めますね。

新居へ移り暮れも押し迫った頃、お袋が実家の外階段で滑って転び
左上腕部を骨折してしまったので、しばらく我が家で世話をする事と
なった。
そんな訳で図らずも賑やかに正月を迎えたその年は、
入社後、まる四年を迎え会社での後輩も出来、
ある意味、サラリーマンとしての生活を満喫していた。

飲みにいった時など会社への不満を
先輩や同僚や後輩と、ぐだぐだ語る己の姿に
『おれもすっかりサラリーマンだねぇ』と
妙に納得しつつ、一抹の寂しさが心の片隅をかすめながらも
くだを巻きながら、少しほろ苦く、それでも楽しい酒を
飲んだりもしていた。

またお店をやっていた頃のお客さんだった後輩が独立し
自分のお店を持って色々なところで活動し活躍するのを
彼らと一緒に遊んだり、イベントの手伝いをしながら脇で見ていると
『あそこは以前はおれが居た場所だったんじゃねぇのか?
と寂しさと焦りと居心地の悪さに居たたまれなくなったりもした。

が、結局、金魚の糞のごとく後から就いていっては
『歳だし、おれみたいなのはもうバックアップで良いんだな
などと自分を誤魔化しながら自嘲気味の薄ら笑いを浮かべていた。

そんなフラストレーションもあってか
入社して落ち着いた頃から通いだした以前コーチをやっていた
スイミングでひたすら身体を鍛えたり
後輩たちと夜な夜な遊んだりバイクで爆走したりしていた。

可もなく不可もなく日々大きくなる子供の成長や雑事に幸せを
感じつつ仕事にも一喜一憂しながら秋には32歳を迎えた。

店を始めてから出来た借金も徐々に減ってきてはいたものの
新たに住宅ローンや新車を買った事もあり日々の生活は
まだまだ苦しかったが、それでも以前のような感じではなく、
ようやく人並みな生活が出来るようになったと感じ始めてもいた。

週末に家族で行く近所のショッピングモールでの買い物にも
ささやかな幸せを感じていた。

その年も恙無く(つつがなく)暮れ、新しい年を迎え、年度末までの工期仕事も
一段落した春、一緒に遊んでいる後輩たちが続々と限定解除するのを、
指をくわえて見ていたおれもとうとう限定解除する為に有給休暇を取り、
当時、県内に数ヶ所しかなかった家から一時間半ほどのS市にある、
合宿して短期で免許を取れる教習所へ入校することにした。

さすがに一週間まとめて休むわけにもいかず、
それでも会社の上層部から文句を言われながらも
まずは4日ほど休み、一週置いて土日を挟んで
試験日の月曜まで有休を取り、当日無事に合格し
意気揚々と家に戻った。

実は当時、既に『RZV500』を中古で買って内緒で
ちょっと乗ったりもしていた。

『これで大手を振って乗れるのだ

友人に『受かったぜぇ』と電話で報告すると、
『おめでとうございます。軽く走りに行かない?』

軽い疲労感と明日出社すれば言われるであろう上層部の嫌味を思うと
少しばかり気乗りはしなかったが
『じゃぁ、ほんとに軽くね。そんじゃ行くわ』と答え電話を切り、
かみさんに『ちょっとA君ところへ行って来るわ、すぐ帰ってくるよ』
と告げ身支度する為に2階へ駆け上がった。



いつもにも増してかなり長いんで後半へ続くよぉ・・・
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お手数でございますが
初めてお見えになった方は
『はじめに…(序章)』
をお読み頂ければ幸いにございます。

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